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『もののけ姫』と『ナウシカ』を接続するのは、『耳をすませば』である
このようにして『ナウシカ』の漫画版(1994年に完結)と映画版(1984年公開)の緊張関係をふまえるとき、漫画版の完結と同時期に具体的に始動した『もののけ姫』(1997年公開)は、ありえたかもしれない3番目の『ナウシカ』に挑む、リベンジのための映画と位置づけられるように思われる。

驚くべきことに、そのヒントになるのがスタジオジブリの前作『耳をすませば』(1995年公開)である。宮崎の右腕であった近藤喜文が監督を務め、宮崎自身は脚本を手がけた同作は、のちにファンの聖地となる聖蹟桜ヶ丘を舞台とした中学生たちの成長と恋の物語だ。空想的な世界も登場するが、血と破壊にまみれた『もののけ姫』とは似ても似つかない。しかし宮崎はこう述べている。
宮崎:僕は思想的にいえば『耳をすませば』と『もののけ姫』が同じ基盤に立っていると思っているんですが。
(宮崎駿『折り返し点: 1997〜2008』所収、「森の持つ根源的な力は人間の心の中にも生きている 『もののけ姫』の演出を語る」より)
ーどこがですか?
宮崎:『耳をすませば』はここまでは言える、ここから先のことについては触れないでおこうと、はっきり線を引いて作っています。そのとき触れなかったものが『もののけ姫』の中にある部分なんです。僕はコンクリートロードの中で暮らしている人間たちが、どういうように生きていくかというときに、別に新しい生き方があるわけじゃない、クラシックな生き方しかないと思っていますので、そういう生き方でいいんだという指摘をし、そういう生き方をする人にエールを送りたかったのです。
ここで宮崎が「触れないでおこう」としたのは、『耳をすませば』の主人公である月島雫と天沢聖司を待ち受けるこの先の現実である。同作のラストシーンは、久しぶりに再会したふたりが夜明けの街を丘から見下ろすシーンだ。そして唐突に、あろうことか聖司は雫に「いつか俺と結婚してくれ」と告白する。それは青春を生きる若者たちの勢いと思い込みによるものであって、まっすぐな結婚のビジョンはまだ何者でもない子どもたちだからこそ100%信じることのできる純朴な願いである。しかし2人を待ち受けているのは、清と濁を飲み込み、自分とは相容れない価値観も引き受けなければ生き抜くことのできない大人の世界。その作り手である宮崎たち大人は「見下ろしている町の中に何が待ち受けているかも十分わかって」そのシーンを描いているのだ。
