2025年9月5日(金)公開の映画『バード ここから羽ばたく』。イギリスの郊外を舞台に、貧困、無学、暴力といった、12歳の少女を取り巻く過酷な状況を鋭利に描いた本作の中では、劇中で流れるFontaines D.C.やSleaford Mods、Blurなどのロックが、一筋の光ともいうべき役割を担っている。評論家・柴崎祐二が論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第30回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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12歳の少女を取り巻く厳しい現実と、謎の青年バード
1998年のデビュー以来、現代イギリス社会の片隅に生きる人々の日常を鋭く見つめる作品作りを通じて、ケン・ローチやマイク・リーら先達が開拓してきた社会派リアリズム映画の地平を大きく押し広げてきた名匠、アンドレア・アーノルド。ここ日本ではいまだ限られた数の観客から認知されるに留まっている彼女だが、近年では、大規模酪農場で飼育される牛の親子の姿に迫った初のドキュメンタリー作品『COW/牛』(2021年)を発表し表現のフィールドを拡大するなど、目下要注目の監督として、世界的な評価を更に高めつつある。
最新作『バード ここから羽ばたく』は、そんな彼女が、自らの故郷でもあるイギリス・ケント州のとある郊外都市を舞台に制作した、リアリスティックかつ幻想的な作品だ。あらすじを紹介しよう。
12歳の少女ベイリー(ニキヤ・アダムズ)は、年の若いシングルファザーのバグ(バリー・コーガン)と、異母兄のハンター(ジェイソン・ブダ)とともに、下町の公営住宅に暮らしている。父バグは、まるで子供がそのまま大人になったような人物で、定職に付かずにその日暮らしの生活を送りながら、出会ったばかりの子連れの恋人ケイリー(フランキー・ボックス)と数日後に結婚式を挙げることにばかり気を取られている。

そんなある日、とあることをきかっけに草原の中で一人夜を明かしたベイリーは、どこからともなく現れた不思議な人物バード(フランツ・ロゴフスキ)と出会う。バードの謎めいた存在感と純真さに惹かれたベイリーは、翌日、改めて彼と言葉を交わす。彼は、かつて同じ団地に住んでいてその後生き別れとなった両親の行方を追っているのだという。
手がかりを得るため、ベイリーはバードを連れて別居中の母親ペイトン(ジャスミン・ジョブソン)を訪ねるが、母は新しい恋人スケート(ジェイムズ・ネルソン=ジョイス)の暴力に怯えながら暮らしていた。ベイリーは、母とともに暮らす自らの幼い弟妹三人の身を案じ、兄ハンターの友人に連絡を取り、母の自宅に転がり込んでいるスケートを襲撃するように依頼する。同じ日、ベイリーとバードは、幼い弟妹たちを連れ出してバードの父が現在住んでいるという街へと向かう。しかし、そこでバードを待ち受けていたのは非情な知らせだった。さらに、ベイリーの兄のハンターが、妊娠が発覚して外出を禁じられたガールフレンドのムーンとともに街を出ようとするが……。

過去作でアーノルド監督が描いてきたのと同じように、今作においても社会の片隅に生きる人々の厳しい現実が容赦なく映し出されていく。その手つきはいつにも増してシャープで「リアル」だが、一方で、超現実的で幻想的なイメージも織り交ぜられている。また、牛、犬、カエル、魚などの動物の姿や、美しい自然の風景をはじめとして、苛烈な生活環境の描写にとどまらない豊かなイメージが全編に横溢し、正統的なリアリズムを超えた神秘的な奥行きと広がりを与えている。
そうした印象を決定づけるのが、映画のタイトルにもなっている謎の男、バードの存在だ。彼はこのストーリーの中で、「生き別れた肉親との再会を期する青年」という現世的な役割を負っているにせよ、その実、もっと象徴的な存在として、映画全体を貫く寓話性を体現している。つねに(その名の通り鳥のように)街を睥睨し、終盤である決定的な役割を果たす彼の存在によって、この作品は、一種のマジックリアリズムの領域へと足を踏み入れているのだ。

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Fontaines D.C.、Sleaford Mods、Blur……ロックの存在感
全編に流れる音楽も大変に印象的だ。まず注目すべきトピックとしては、電子音楽界きっての鬼才ブリアル(Burial)がオリジナルスコアを担当している点だ。ノイズや環境音を織り交ぜたそのサウンドは、ベイリーの孤独な心象風景を描き出していくにあたって、特に重要な役割を果たしている。
加えて、数々の既存曲も特筆すべき効果を発揮している。映画冒頭、バグがベイリーをスクーターに乗せて街中を疾走する場面に使用されるアイルランド出身のロックバンドFontaines D.C.の“Too Real”からして、その存在感・臨場感は抜群だ。
バグは大の音楽好きで、ことあるごとに爆音でロックバンドの音楽を聴いている。Blurの名曲“The Universal”を結婚式のカラオケのため練習したり、悪友たちとともにSleaford Modsの“Jolly Fucker”を熱唱したり、ヒキガエルに幻覚作用のある体液を分泌させようとColdplayの“Yellow”を聴かせたりとやりたい放題だが、各曲とも、単なる憂さ晴らしのための存在であるのを超えて、映画が描こうとしているテーマとも小さくない重なり合いを描いている。
彼(および彼の友人たちや家族)の生き様は、確かに無軌道極まりなく、表向きは何らの希望も見いだせない生活にがんじがらめになっているようにみえる。地域コミュニティも崩壊し、ろくな仕事もなく、暴力が横行している。昨日までの子供が明日には人の親になり、到底ケアは行き届かない。絶望が再生産されていくさまを、ただ眺めることしかできないのだろうか。
しかし、それでも彼らは、「Don’t You Worry(心配しなくていいよ)」と考えている(考えようとしている)。いかにも無根拠かもしれないが、なぜだか不思議な確信があるようにも見える。彼らはギリギリのところで自分たちを「鳥瞰」し、別の形の希望に火を灯す術を心得ている、ということなのかもしれない。それはかつて、パンクロックやポストパンクを実践した「何者でもない」者たちが、ユーモアと反骨精神をもってろくでもない現実を作り変えてみせたのと同じように。
そう考えるならば、Sleaford Modsの曲に込められた皮肉に満ちた反逆精神や、Fontaines D.C.の攻撃的な激情、Blurのシニカルでいてロマンチックな詩情、Coldplayの(ある種演劇的とすらいえる)過剰な壮大さや、(ハンターがいうような)「オヤジ臭い」The Verveの名曲“Lucky Man”にも、他ならぬ彼ら自身の自己対象化のエネルギーが(結果的に)響き渡っていると捉えた方がよっぽど面白いはずだ。

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イギリスにおいてポップミュージックが担ってきた役割
特に、イギリスやアイルランドの現代文化史において何よりもそうだったように、ポップミュージックの存在は、ある特定の社会階層にとって、単に「ポピュラー」であるという意味を超えて、すぐれて多層的な意味において「ポップ」であった。それは単なる「趣味」である以上に、消費社会の末端部において自らのアイデンティティと実存が必然的に溶け込む対象であるという意味において、避けがたく「ポップ」なものだった。あるいは、様々なアイデンティティを束ね、ときにエスタブリッシュメントに対しての痛烈なカウンターとして機能してきたのが、「ポップ」ミュージックだった。パンク〜ポストパンク以後のロック / ダンス / ストリートカルチャーは、そういう意味における「ポップ」性と切っても切れない存在であったと同時に、そこにはつねに、熱狂的な没入への誘いとともに、自らを対象化して嗤い飛ばしてみせるような乾いたユーモアが見え隠れしていた。
太平洋大戦後、厳密な意味での強固な階級社会を、(少なくともかつて中流意識の浸透の元そう自認していたという意味で)なんとか迂回してこられた日本にとって、こうした感覚はいまもなお本質的には分かりづらいものだと思われる(もし興味のある方がいれば、優れた音楽ジャーナリスト=ジョン・サベージが書いた『イギリス「族」物語』(岡崎真理訳、毎日新聞出版、1999年)を読んでみてほしい)。しかしながら、『バード ここから羽ばたく』の舞台になったイギリスの地方郊外都市で、明日をも知れぬ者たちが、労働者階級の代弁者と評価されることの多いSleaford Modsや、「反中央」的なイメージを強くまとっていたFontaines D.C.や、「国民的」バンド=Coldplayや往年のブリットポップの名曲を、元の音源がひしゃげるほどの爆音で聴くという行為には、当然のこととして、自己言及的な意味合いが付属してくるのだ。

いうなればバグたちは、音楽への熱狂を通じて自らを対象化し、アイデンティティを見定め、その熱狂によって、かろうじてニヒリズムへの隘路を避けて通っているということなのではないか。「対象化」という行為は、ともすれば(中産階級の人々がよくするような)理知的な方法でしか達成できないものだと思われるかもしれないが、しかし、爆音で再生される音楽体験とその肉体的な熱狂を通じて「対象化」が行われることもあるだろう(というか、そちらの方が、論理的思考を通じた自己対象化よりももっと根源的な体験かもしれない)。