『ローズ家〜崖っぷちの夫婦〜』が2025年10月24日(金)に公開される。ベネディクト・カンバーバッチとオリヴィア・コールマンが、次第にすれ違い対立するようになる夫婦を演じたコメディ映画だ。
社会風刺に満ちた本作を、作中で流れるポップミュージックに注目しながら、評論家・柴崎祐二が論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第31回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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夫婦の争いを描いたコメディ映画
『オースティン・パワーズ』シリーズをはじめ、『ミート・ザ・ペアレンツ』、『スキャンダル』、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』などのヒット作 / 話題作を手掛けてきた名匠ジェイ・ローチが、かつてダニー・デヴィートが監督した傑作コメディ映画『ローズ家の戦争』を現代向けにアップデートする――。そんな作品に心が踊らないわけがない。
本作『ローズ家〜崖っぷちの夫婦〜』は、その『ローズ家の戦争』と同じウォーレン・アドラーの小説を原作としているが、一般的なリメイクとはかなり趣が異なっている。『哀れなるものたち』など、ヨルゴス・ランティモス監督作品のシナリオで知られるトニー・マクナマラが新たに脚本を手掛けていることからも察される通り、その内容は、よりダイナミックかつ社会風刺的な面を強めていると同時に、ローチ監督ならではの辛辣なユーモアが絡み合うことで、紛れもない2020年代産のコメディ映画として同時代的な魅力を放っている。
あらすじを紹介しよう。建築家のテオ(ベネディクト・カンバーバッチ)は、同僚たちとの食事の場で、料理人のアイビー(オリヴィア・コールマン)と出会う。すぐに恋に落ちた二人はロンドンからアメリカ西海岸に移住し、双子の子供にも恵まれるなど、幸せな日々を送っていた。しかしある日、テオが自らの人生をかけて設計した地元の海洋博物館が、記録的な嵐に襲われて彼の目の前で崩壊してしまう。そのことをきっかけにテオは突然仕事を失ってしまうが、一方で、アイビーはおもわぬ成功を手にすることになる。子育ての傍ら営業していたシーフードレストランが、ひょんなことをきっかけに大人気店となったのだ。

それまでとは正反対の関係となってしまった彼らは、徐々にお互いに対してフラストレーションを抱くようになり、喧嘩の絶えない日々を送る。ある日、不安定なテオを案じたアイビーは、建築家としての彼の願いを叶えるべく、こだわりを詰め込んだ自分たちの家を作ることを提案する。一時的に関係が修復されたように見えた二人だったが、他でもないその自宅を巡って骨肉の争いが繰り広げられていく。

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リメイクで掘り下げられた現代的なテーマ
ある男女が劇的に恋に落ちて結婚するも、徐々に二人の間に暗雲が立ち込め、最終的に破局的な展開に至るという物語は、デヴィートの『ローズ家の戦争』と同様の構造を持っている。そうした悲劇的な展開の反面で、随所にコミカルな台詞や演出が敷かれているという点も、両者は重なり合っている。
一方で、今回の『ローズ家〜崖っぷちの夫婦〜』では、旧版ではそれほどまで深く掘り下げられていなかった部分が、大胆に敷衍されていることに気づく。最も印象深いの点は、現代の結婚生活における男女の役割と、それにまつわるアイデンティティ追求の問題に触れていることだ。旧版でも、キャスリン・ターナー演じる妻が得意の料理を活かしてビジネスを興そうとし、マイケル・ダグラス演じる夫に適当にあしらわれる下りが描かれていたが、今作では、そうした「仕事と家庭」の問題や、この間の一般的な夫婦間の力関係の変化が、ごく象徴的な形で主題化されている。仕事上の大失態を経て、一応は家事と育児に専念しつつも建築家としての成功を諦めきれないテオが、あれよあれよという間に社会的な成功を手にしていくアイビーに対して歪な感情を積もらせる様や、更には、その結果として両者のコミュニケーションが破滅していく様は、(一見進歩的にみえる)テオもまた結局のところ旧来の家父長制的な「常識」に囚われつづける存在であることを、実にクリティカルな仕方で描き出している。

加えて、二人はうわべだけは互いを気遣いつつも、心の奥底では決して自らの成功願望を手放すことはできない。ローズ家のような阿鼻叫喚の争いを繰り広げる例は当然稀だとしても、ここで提示されている軋轢に身につまされる思いを持つ現代家庭は決して少なくないだろう。
そういった意味では、(ここへきてにわかに話題となっている)「ワークライフバランス」に関する寓話としても、本作は大変に興味深い。家庭という、本来ならば保守主義者こそが最も重要だと考えているはずの最小コミュニティが持続的に運営されるためには、そこへの参与者が闇雲に「ワーク」ばかりを追い求めるならば、必ずやその試みは失敗する。それどころか、しばしば悲惨な結果を招くことにすらなるのだ。
ワークforライフか。それとも、ライフforワークか。テオとアイビーの二人は、そういう単純な二者択一を「大人として」選択しようともがくが、その実、そうした択一的な構図こそが、資本主義社会が必然として要請するなにものかであることには気付けない。二人は、お互いが抱えるストレスの原因が、本当はもっと家庭の外にこそ根を持っているのかもしれないということへは思い至らず、他でもないお互いのせいで自らを犠牲にしていると信じてやまないのだ。そう考えれば、なんと悲劇的な「すれ違い」であろうか。

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オープニング / エンディング曲“Happy Together”の不穏さ
本作には沢山の既存楽曲が使用されている。Big ThiefやFirst Aid Kit、Waxahatchee、コートニー・バーネットなど、インディーロック〜フォーク系の楽曲が目立っているが、その中でも最も印象的な存在が、冒頭とエンディングに使われている曲“Happy Together”だ。
“Happy Together”は、元々はアラン・ゴードン&ゲイリー・ボナーのコンビが書き、米カリフォルニアのフォークロックバンド=The Turtlesが取り上げて1967年に大ヒットした曲だが、本作では、The Banglesのスザンナ・ホフスとシンガーソングライターのルーファス・ウェインライトが新たにカバーしたバージョンが使用されている。
タイトルだけをみると、幸せなカップルの心情を描いたラブソングに思われるかもしれない。しかし、憂いを帯びた短調の響きからも察されるように、実際には成就の難しい一方的な愛を妄想混じりで歌っている曲と解釈するのが正しい。要するに、“Happy Together”という状態を歌っているのではなく、“Happy Together”への切実な願望と、その叶い難さが歌われている曲なのだ。歌詞の一部を引こう。
10セントを使って君に電話したなら
私は貴方のものだと言って 僕を癒やしてくれるね
考えてみて 世界はどんなに素晴らしいか
二人が一緒なら幸せになれる僕と君 君と僕
サイコロがどう出ようと 決まったこと
僕にとっての唯一人の人は君 君にとっての僕もね
二人が一緒なら幸せ一緒なら幸せ
一緒なら幸せ
一緒なら幸せ
一緒なら幸せ——“Happy Together” 筆者訳
改めて歌詞を味わってみるとかなり不穏な空気の漂う曲なのだが、それだからこそ、この映画のテーマにフィットしていると感じる。オリジナルのThe Turtles版が男声のみによって歌われていたのに対して、絶望的なすれ違いの様を巧みに表現するように、女声・男声のデュエットで歌われているのも効果的だ。
